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戦乱期の新興宗教の運命 その1

三国志の前日譚

後漢の領域

 『後漢(25年~220年)』は光武帝『劉秀(りゅうしゅう)』によって創始された王朝です。

 後漢は科学技術の進歩が著しい時代であり、その代表的なものは『蔡倫(さいりん)』による製紙技術の改良〈注3〉です。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

清代の書物に描かれた張角

𒉡画像引用 Wikipedia

 中国史における『』の時代は約400年――前漢(約200年)+ 後漢(約200年)――も続いた古代中国における黄金期でした。

 しかし、長きに渡る『劉家(りゅうけ)〈注1〉』の支配は、繁栄と共に政治を腐敗させることになりました。

 

 後漢王朝の末期には『外戚(がいせき)/皇后または皇太后の一族』や『宦官(かんがん)/去勢を施された官吏』などが私欲のために権力を専横するようになり、王朝は衰退。

 そうした政治状況を真っ向から批判した正義感の強い知識人――『清流派』と称した士大夫豪族)たち――もいましたが、そのことが権力を握っていた宦官たちの怒りを買い、彼らは官職から追放されてしまいました。

 その後、一部の知識人は宦官を排斥するために挙兵しましたが、返り討ちに遭い、計画に加担した者たちの数多くが誅殺されました。

※上記で述べた知識人に対する弾圧は、中国史において『党錮の禁(とうこのきん)〈注2〉』と呼ばれています。

 

 一方、(華北一帯の)民衆の間では、悪化する世の中を悲観したのか、ある新興宗教が流行していました。

 それは、道教の一派『太平道(たいへいどう)』であり、教団を組織したのは『張角(ちょうかく)』という人物でした。

 実際に霊能力があったのかどうか、この張角という人物は、現代的に言えば『心霊治療』によって病人を癒し、比較的短期間に信者を数十万人にまで増やしたと伝えられています。

 これだけ聞くと、古代中国版の『イエス・キリスト』のように見えなくもないですが、結果として、彼は乱世の中国において『メシア(救世主)』になることはできませんでした。

 太平道のような『新興宗教』が存在した歴史的意味とはなんだったのでしょうか……。

 

 ということで、今回のテーマは、このブログでは初の歴史シリーズ――かの有名な『三国志』の発端――『黄巾の乱』となります。

 

 歴史には、しばしば乱世における新興宗教の台頭のことが記されています。

 その教祖たちは、信者たちに救世主であることを期待されましたが、大抵は失敗してしまいました。

 現代でも、世の中が乱れるにつれ、救世主を自称するたちが複数出現するかもしれません。

 あるいは、陰謀論において『支配層』と呼ばれる者たちも、ひょっとしたら(世界統一のために)救世主という『神輿』をいつか用意するかもしれませんが、歴史を紐解けば、救世主という概念の虚像を見抜く目も、少しは養うことができるのではないでしょうか。

 

 ┐(゚~゚)┌  知らんけど。

 

 日本では『三国志ファン』の方はとても多いので、ツッコまれないように注意しながらこの記事を進めたいと思います……(焦)。


【注釈 1~2】

 

■注1 劉家(りゅうけ)

 漢王朝は『劉氏(りゅうし)』によって建国された。

 前漢の初代皇帝は『劉邦(りゅうほう)/高祖』、後漢の初代皇帝は『劉秀(りゅうしゅう)/光武帝』である。

 

■注2 党錮の禁(とうこのきん)

 党錮の禁は、後漢末期に起きた知識人に対する弾圧事件である。

 宦官勢力に批判的な清流派の士大夫(党人)らを宦官が弾圧したものであり、『第1次党錮の禁(166年)』と『第2次党錮の禁(169年)』に分類される。

 

■注3 『蔡倫(さいりん)』による製紙技術の改良

 蔡倫による製紙技術の改良は後漢の時代のみならず、後の世界史全体に多大な影響を与えた。

 それまでの『竹簡(竹を一定の大きさに切って束ねた物)』とは比べ物にならないほどに小さくて済む紙は、文化の伝達速度を格段に上げ、優れた文学・書物が地方に伝播するのに大きく貢献した。

破局の物語

曹操(中央)

劉備(左)

孫権(右)

𒉡画像引用 Wikipedia

桃園の誓い

 画像は、小説『三国志演義』の場面の1つである『桃園の誓い』を描いた絵です。

 『桃園の誓い』とは、三国志の主人公の1人である『劉備(りゅうび)』が、『関羽(かんう)』や『張飛(ちょうひ)』という武人たちと義兄弟となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話ですが、これは小説における創作です。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

三国時代の勢力図

𒉡画像引用 Wikipedia

 太平道という宗教結社について語る前に、三国志について簡単に紹介したいと思います。

※太平道の反乱は、三国志の時代に繋がったため。

 

 三国志と聞いて、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。 

 現代では様々なメディアで宣伝されているので――

 

曹操(そうそう) ⇒ の建国者。

            ただし初代皇帝は曹丕(そうひ)

劉備(りゅうび) ⇒ 蜀漢の建国者

孫権(そんけん) ⇒ の建国者

 

――などの英雄的君主や、その配下である名将・猛将・策士たちが活躍する物語を想像する方が多いでしょう。

 

 三国志と呼ばれる文献は、大きく分けて2種類が挙げられます。

 1つは、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚『陳寿(ちんじゅ)』という人物が書いた(歴史書としての)『三国志正史)』であり、もう1つはこの文献を基本的な資料とした『』の時代の小説――『三国志演義(さんごくしえんぎ)〈注4〉』です。

 メディアに取りあげられる『物語としての三国志』は、(概ね)この三国志演義が元になっています。

 

 乱世の記録である以上、武将や軍師たちに注目が集まるのは当然のことですが、歴史的な視点で見ると、実は三国志とは『破局のプロローグ(序章)』でもあります。

 言い換えると、この時代はそれまで中国大陸の主流だった古代の中国人が滅び(激減し)、別の民族によって支配される『きっかけ』を生み出してしまったのです。

 上記について、日本の近未来における可能性の1つ(?)で例えるなら、以下のような感じとなります。

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日本列島中国ロシア、あるいは半島などの人々が大規模に侵入――して日本を占領。日本の領土は各勢力によって分割統治される。

※上記は、外国人の大量移民から(日本の各地域における)事実上の独立に至る場合もあり。

 

●日本の主人は多国籍の外国人となり、日本人は事実上の奴隷にされる。その中でも、特に日本の男たちは殺害や断種の対象とされる――純粋な日本人の人口は激減し、国民の主流ではなくなる。

  

万世一系といわれた皇室は取り潰しとなり、それまで築いてきた日本の歴史は断絶する。

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 どうでしょうか…………上記の状況になった数百年後に国土が再統一され、統一国家の国名が『日本』を称していたとしても、その指導者たちには(当然のことながら)外国人の血が色濃く混じっています。

 つまり、その日本とは、現日本人の(特に男系の)血統が極めて希薄になった『多民族国家』なのです。

 それまでに滅びた日本の文化も、政治的な意図などにより、復活させられることも考えられますが、その実態は、外国の成分が多分に入った『パチモノ』よりも酷い産物になるかもしれません。

 この状況を以て、果たして「日本が復活した」といえるでしょうか。

 

 前述した『人種の入れ替え』が過去に起こってしまったのが、中国における後漢末の群雄割拠に始まる大分裂時代なのです。

 そういう意味では、三国志とは(古代中国人にとって)『救いようない破滅の始まり』ともいえるでしょう。

 この破滅は、如何なる要因で導かれたのでしょうか……。

 

 では、今回はここまでとし、次回から本格的な歴史の考察に入っていきたいと思います。


【注釈 4】

 

■注4 三国志演義(さんごくしえんぎ)

 三国志演義の著者は定説が決まっておらず、『施耐庵(したいあん)』あるいは『羅貫中(らかんちゅう)』だと伝えられている。

参考・引用

■参考文献

●三国志〈1〉転形期の軌跡 丸山松幸、中村原 訳 松枝茂夫、立間祥助 監修 徳間書店

●正史 三国志 陳寿、裴松之 著 ちくま学芸文庫

●後漢書 本紀 范曄 著 吉川忠夫 訳 岩波書店

●千年王国運動としての黄巾の乱 三石善吉 著

 

■参考サイト

●Wikipedia

●WIKIBOOKS

●Wikiwand

●Weblio辞書

●ニコニコ大百科

●ピクシブ百科事典

●コトバンク

●goo辞書

●もっと知りたい! 三国志