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戦乱期の新興宗教の運命 その2

第2の分裂時代

司馬炎(左)

司馬懿(右)

 西晋は、魏の将軍・政治家『司馬懿(しばい)/:仲達(ちゅうたつ)』の孫である『司馬炎(しばえん)/字:安世(あんせい)』により建国されました。

※司馬懿は、三国志の主人公の1人である『諸葛亮(しょかつりょう)/字:孔明(こうめい)』のライバルでした。

 

 天下統一の後、司馬炎は政治への興味を失い、後の大乱の遠因を作ったといわれています。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

五胡十六国時代の華北

 『五胡(ごこ)』とは匈奴鮮卑という5つの非漢民族のことを指します。

 なお、北魏により華北が統一されて『五胡十六国時代』が終焉した後も、中国では『南北朝時代(なんぼくちょうじだい)/439年~589年』という分裂時代が続きました。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

 紀元2世紀末から6世紀までの歴史――つまり『黄巾の乱(184年)』をきっかけとする後漢王朝の事実上の崩壊から『』による天下統一(584年)に至るまでの400年間は、中国史上『春秋・戦国時代』に次ぐ第2の大分裂時代となりました。

 『三国志』の舞台となった三国時代と呼ばれているのは、この分裂時代の幕開けに当たる約100年間に当たります。

 

 この三国時代は『』――歴史的には『西晋』と呼ばれる――により天下統一が成された(265年)のですが、その安定も束の間のことでした。

 西晋は『八王の乱』と呼ばれる晋王朝の皇族同士の内乱で衰退した挙句、異民族――傭兵(主に騎兵)として雇われていた者たち――の独立を招きました。

 304年、まずは匈奴の『劉淵(りゅうえん)』が漢王〈注1〉を称し、同年のうちに『巴蛮(はばん)/の一種』の『李雄(りゆう)』が成都王を称しました。

 

 劉淵の後継者となった『劉聡(りゅうそう)』〈注2〉は、翌311年に晋の首都である洛陽を陥落させて『懐帝(かいてい)』を捕獲。その後、晋の残党が長安で『愍帝(びんてい)/懐帝の甥』を擁立すると、(316年に)劉聡はこの勢力を降伏させて晋を滅亡させました。

 生き残っていた晋の皇族たちは、大陸の南方(江南)に新たな晋王朝――歴史的には『東晋』と呼ばれる――を建国しましたが、以後、華北が彼らの手に戻ることはありませんでした。

 

 前述した華北における304年の『漢(後に前趙と改称)』の興起から、439年の『北魏』による華北統一までの期間は『五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)/304~439年』と呼ばれています。

 この時代、華北において(主に)非漢民族によって乱立した複数の国が興亡〈注3〉を繰り広げました。

 

 中国の最初の分裂時代である春秋・戦国時代や三国時代の知名度に比べると、『五胡十六国時代~隋の建国』までの歴史上の人物を詳しく知っている日本人は、多くないと思われます。

 春秋・戦国時代であれば、漫画『キングダム〈注4〉』が流行する以前においても、各作家たちがこの時代を舞台とした小説を書いていました。

 つまり、春秋・戦国時代や三国時代には、創作意欲を湧かせるような傑物たちが多かったことになるのでしょう。

 しかし、五胡十六国時代やその後の南北朝時代になると、上記の時代に現れたような魅力的な人物は少ないのかもしれません。

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※『後漢末の群雄割拠~三国時代』の頃は、まだ異民族が中心的な勢力とならず、後漢の文化的な影響を受けた個性的な人物の記録が豊富に残されました。

 もちろん『五胡十六国時代~隋の建国』の期間にいた人物を主人公にした小説もあるので、上記で述べたことは、あくまで比較の話(ブログ主の独断と偏見)として考えていただきたいところです。

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 それ故かどうか、この分裂時代は様々な乱世の中でも無意味に殺戮が繰り返されたという印象――陰惨なイメージ――を与えている部分が強いと思われます。

 このような混乱の時代を招くきっかけとなったのが、宗教結社『太平道』が引き起こした農民反乱――『黄巾の乱』だったのです。 


【注釈 1~3】

 

■注1 匈奴の『劉淵(りゅうえん)』が漢王

 劉淵は自立すると、まずは匈奴の大単于を名乗ったが、漢と匈奴が兄弟の契りを交わしていたことを名目として漢王と称した。

 劉淵の死後、国号が改称されて前趙となった。

 

■注2 劉淵の後継者となった『劉聡(りゅうそう)』

 310年に劉淵が死去した後、一旦は長男の『劉和(りゅうわ)』が跡を継ぐが、人望が無く異母弟の劉聡が取って代わった。

 

■注3 非漢民族によって乱立した複数の国が興亡

 『五胡十六国時代』の『十六国』とは、北魏末期の史官の『崔鴻(さいこう)』が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際に建国された国の数は16を超えるが、とりあえずは、これらの国が当時の代表的な国家だと考えてよいだろう。

 また、『十六国』の中には、僅かながら漢民族(漢族)による国家も含まれている。

 この『十六国』を登場順に並べると以下のようになる(参考画像あり)。

① 漢(前趙)/304年~329年(地域:山西陝西

② 成漢/304年~347年(地域: 四川

後趙/319年~350年(地域:山西陝西

前燕/337年~370年(地域:河北山東

前涼/345年~376年(地域:甘粛

前秦/351年~394年(地域:陝西山西

後燕/384年~409年(地域:山東河北

後秦/384年~417年(地域:山西

西秦/385年~431年(地域:陝西

後涼/386年~403年(地域:甘粛

南涼/397年~414年(地域:甘粛

北涼/397年~439年(地域:甘粛

南燕/398年~410年(地域:山東

西涼/400年~420年(地域:甘粛

/407年~431年(地域:陝西山西

北燕/409~436(地域:河北

建国者は、劉淵(民族:匈奴)

建国者は、李雄(民族:氐)

建国者は、石勒(民族:羯)

建国者は、慕容皝(民族:鮮卑)

建国者は、張重華(民族:漢族)

建国者は、苻洪(民族:氐)

建国者は、慕容垂(民族:鮮卑)

建国者は、姚萇(民族: 羌)

建国者は、乞伏乾帰 (民族:鮮卑)

建国者は、呂光(民族:氐)

建国者は、禿髪烏孤 (民族:鮮卑)

建国者は、沮渠蒙遜(民族:匈奴)

建国者は、慕容徳(民族:鮮卑)

建国者は、李暠(民族:漢族)

建国者は、赫連勃勃(民族:匈奴)

建国者は、馮跋(民族:漢族)


𒉡画像引用 Wikipedia

■注4 キングダム

 〈キングダム』は、原泰久による日本の漫画作品。

 『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて2006年9号より連載中(2022年7月時点)。

 古代中国の春秋・戦国時代末期における戦国七雄の戦争を背景とした作品であり、始皇帝李信の武将)が主人公。

転形期

光武帝『劉秀』

 後漢を建国した後漢の初代皇帝(光武帝)『劉秀(りゅうしゅう)/:文叔(ぶんしゅく)/生没年:前6年~57年』は、中国史上でも屈指の名君といわれています。 

 前漢より帝位を簒奪した『王莽(おうもう)/字:巨君(きょくん)』は、結果として天下を混乱させましたが、光武帝はその状況を統一した人物です。

※中国史上において、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功したのは光武帝のみ。

 

 光武帝は、儒教を振興しつつも、自身の政治的信条としては『法家信賞必罰の徹底を説く政治思想)』的だったといわれています。

 おそらく、前漢の名君と言われる『宣帝(せんてい)』のように、光武帝は『覇道(法家)』と『王道(儒家)』のバランスを心掛けていたと思われます。

 また、中国史における君主では極めて珍しく、天下統一後に家臣を粛正しなかったことも大きな特徴です。 

 

 日本史にも関連があり、光武帝は『漢委奴国王の金印』を(日本)の奴国の使節に与えた皇帝とされています。

 

𒉡画像引用 Wikpedia

後漢帝室の系図

 後漢は、3代目の『章帝(しょうてい)』までは名君が続き、全盛期を迎えましたが、章帝が32歳で死去すると、以後は幼少の皇帝が続きました。

 その結果、幼い皇帝を補佐する外戚勢力と宦官勢力とが政争を繰り広げ、後漢を滅亡へと導くことになりました。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

 時代を遡り、この章は後漢の話となります。

 

 前章でも述べた通り、『黄巾の乱』は、約400に渡る中国の分裂時代を招きました。

 この長期に渡る動乱の背景としては、以下の要素が考えられています。

 

の時代の社会で生まれた豪族勢力の成長

②王朝周辺の異民族の成長

③後進地域だった華南(中国南部)の経済的発展

  

 つまり、後漢とは、社会体制の根底が変わる転形期だったのです。

 漢の時代の人々は、初めは同レベルの自作農だったと思われますが、農業生産力の向上につれ、農民たちの間に格差が生まれました。

 そして、豪農が財力に物を言わせて貧者の土地を入手したり、新たな土地を開墾したりして経営を拡大――土地を失った貧農を借地農や奴隷農民として使役しました。

 このことは、現代において大企業が中小企業を飲み込んでいく状況を彷彿とさせます。

   

 このような豪族の強大化は、皇帝の権力(国家)と対立するものでしたが、後漢になってからは容認されるようになりました。

 後漢の初代皇帝『光武帝(こうぶてい)』が、各地の豪族の力を借りて後漢を建国したからです。

 

 ブログ主が後漢に注目したのは、現代(特に現代日本?)に類似する部分をこの時代の歴史に感じたからです。

 もちろん、現代とは文明レベルも政治体制も違います――当時の中国は『家産国家』であり、現代のような民主主義体制ではありませんでした。

 しかし、この時代の歴史をよく調べてみると、現代と奇妙に一致する部分があるのです。

 以下にそれを並べると――

  

①科学技術の発展

②文学の発展と知識人階層の成立

③迷信(予言など)の流行

④偽善社会

⑤麻薬の蔓延と現実逃避

※⑤は特に(後漢の後の)三国時代に見られた傾向です。

  

――といったところです。

 次回以降にて、上記について個別に触れたいと思います。

  

 ( º дº)< 「なかなか黄巾賊のネタに入らないな」

 

――と思われる読者の方がいるかもしれませんが、ただ『黄巾の乱』の勃発から鎮圧までの過程を解説するのは、このオカルトブログには相応しくないと考えています。

 そうしたことについては、すでに専門家が各書籍で行っているからです。

 故にこのシリーズ記事では、過去の事例を考察して『歴史的パターン』の発見を試み、多少なりとも予言的な要素も加えていきたいと考えています。

 

 中国の王朝における君主(天子)は、建前的には『』の体現者――つまり政治への高いモラルと福祉の実践が求められましたが、後漢では、時代を経ることにこれらが見られなくなりました。

 こうした傾向は後漢に限らず全ての国家に共通することですが、それ故に、現代の民主国家が腐敗し、福祉政策などをおろそかにしていくことにも通じるでしょう。

 要は、時代や政治体制は違えども、民衆の間で国家に対する信頼が失われていったことは変わらないということです。

 その結果、後漢では『黄巾の乱』以前から擬似的な『メシア(救世主)』――つまり、宗教的な思想を背景に民衆を救済することを大義に掲げた『皇帝』や『』(を自称する者たち)による反乱が頻発〈注5〉するようになりました。

  

 奇しくも、19世紀末以降の西欧でも神秘主義民族主義が融合した思想が流行し、ナチス・ドイツを生み出す土壌を生み出したと考えられています。

 そして、ナチスのリーダーである『アドルフ・ヒトラー』は、どん底だった当時のドイツに出現した『救世主』だったのです(そのような演出でプロパガンダが行われたということです)。

 

 国家の力が弱まり、富を蓄えた者たちが国家の法を無視し始め、蔑ろにされた貧民は、希望を与えてくれるオカルティックな指導者に縋るようになる――国家が滅び、混沌の時代に入る段階の様相は、いつの時代も変わらないのかもしれません。

 

 では、次回は『黄巾の乱』を発生させた後漢の特徴について、確認していきたいと思います。

 執筆完了までお待ちを!


【注釈 5】

 

■注5 『皇帝』や『王』(を自称する者たち)による反乱が頻発

 『後漢書本紀)』には、以下の反乱の記録がある。

 

 145年、九江の馬勉、黄帝と称す。歴陽の幕孟、黒帝と自称す。

 147年、陳留の李堅、皇帝を自称す。

 148年、長平の陳景、黄帝子と号して挙兵す。

 150年、扶風の裴優、皇帝と自称す。

 154年、蜀郡の李伯、太初皇帝たらんとす。

 165年、勃海の蓋登、太上皇帝を称す。

 166年、沛国の戴異、太上皇を称す。

 172年、会稽の許生、越王と自称す。

 184年、鉅鹿の張角、黄天と自称す。 ※『黄巾の乱』のこと。

 

 上記の反乱の主謀者たちは、史書では賊・盗賊・妖賊などと記されているが、いずれも五行思想や初期の道教の教義などを(幾分か)学んだイデオローグ』でもあった。

※反乱の結果としては全員が鎮圧された。  

参考・引用

■参考文献

●三国志〈1〉転形期の軌跡 丸山松幸、中村原 訳 松枝茂夫、立間祥助 監修 徳間書店

●正史 三国志 陳寿、裴松之 著 ちくま学芸文庫

●後漢書 本紀 范曄 著 吉川忠夫 訳 岩波書店

●千年王国運動としての黄巾の乱 三石善吉 著

 

■参考サイト

●Wikipedia

●WIKIBOOKS

●Wikiwand

●Weblio辞書

●ニコニコ大百科

●ピクシブ百科事典

●コトバンク

●goo辞書

●もっと知りたい! 三国志

●光武帝と建武二十八宿伝

●後漢人物名録