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戦乱期の新興宗教の運命 その4

後漢社会の特徴

後漢最後の皇帝 献帝

 後漢の最後の皇帝である『献帝(けんてい)』は、聡明な人物だったと伝えられていますが、時代に翻弄され、漢王朝帝位を『曹丕(そうひ)/字:子桓(しかん)』に禅譲することになりました。

 これにより、三国時代における魏王朝が始まりましたが、そこにも様々な問題があり、この王朝はわずか45年で滅亡〈注1〉しました。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

 『その3』に引き続き、『その4』でも後漢の時代における以下の特徴について解説します。

 今回は(以下の特徴のうち)④と⑤がテーマとなります。

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①科学技術の発展

②文学の発展と知識人階層の成立

③迷信(予言など)の流行

④偽善社会(思想との関連)

⑤(末期における)麻薬の蔓延と現実逃避

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 このうち、⑤に関しては後漢というよりは三国時代に見られた傾向といわれています。

※⑤のタイトルにつけた『末期』とは『後漢末期』というよりは『古代中国の末期』といった方が適切かもしれません。

 

 ⑤では、『五石散(ごせきさん)/あるいは寒食散(かんしょくさん)・寒石散(かんせきさん)』と呼ばれる麻薬的な薬物のことが主要な話題となります。

 五石散は、後漢の時代からの治療薬として開発されていましたが、麻薬的な用途で流行したのは後漢からではなく『三国時代(魏)』になってからというのが定説となっています。

 この薬物は『(三国時代)』の後の『西晋』でも流行し、その王朝を崩壊させる要因の1つになったともいわれています。

 西晋滅亡後、中国大陸は長きに渡る分裂時代が続くことになりました〈『その2(章:第2の分裂時代)』参照〉。

 

 薬物も乱世を招く要因になったという話は、現代でも教訓になると思い、敢えてこの記事で取り上げてみました。

 国家が滅亡に至る条件の多くは、天災ではなく人間の所業により醸成されます――人間の歴史は(基本的に)人間が作るものだからです。

 

 そういう意味では、今回の記事は人間の中にある『愚かさ』に焦点を当てているといえるのかもしれません。

 特に、次章で取り上げる『偽善』は、地球上の生物において(おそらく)人間のみに見られる行為だからです。

 

 しかし、それもまた歴史を構成する要素の1つとなったのです。


【注釈 1】

 

■注1 魏王朝 ~ この王朝はわずか45年で滅亡

 魏王朝は、曹操が国家の基礎を創り、曹丕の代で後漢の献帝から帝位を禅譲されて始まった。

 もちろん、この禅譲は曹操の代から続いていた『長いお膳立て(政治工作)』を経てのことである。

 しかし、初代皇帝の『文帝(曹丕)』は即位してから6年(享年40歳)、2代の『明帝(曹叡)』は13年(享年34歳)という短い在位で死去した。

 その文帝・明帝の時代に台頭したのが『司馬懿(しばい)/字:仲達(ちゅうたつ)』である。

 司馬懿は(明帝の後の)『少帝(曹芳)』の時代にクーデターを起こし、政治の実権を握っていた皇族の『曹爽(そうそう)/字:昭伯(しょうはく)』とその一派を粛正――以後、司馬懿は少帝を傀儡にした(⇒高平陵の変)。

 

 司馬懿の後を長男の『司馬師(しばし)/字:子元(しげん)』が継ぎ、その後を次男の『司馬昭(しばしょう)/字:子上(しじょう)』が引き受けて司馬氏はその権力を盤石にした。

 そして、司馬昭の子『司馬炎(しばえん)/字:安世(あんせい)』の代に『魏(曹氏)』から『(司馬氏)』へ帝位が禅譲され、魏は滅亡した。

※上記については、『後漢⇒魏』の場合と同じく実質的な帝位簒奪である。

④偽善社会

孝経

 孝経は、『曾子(そうし)/字:子輿(しよ)』の門人が『孔子/本名:孔丘(こうきゅう)/字:仲尼(ちゅうじ)』の言動を記したとされる儒教の文献です。

 孝経は中国のみならず、日本でも古くから重要視されました。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

雲台二十八将

  『雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)』とは、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣です。

 前回の初代皇帝(高祖)『劉邦(りゅうほう)』は、儒者の冠に放尿したと伝えられるならず者でしたが、光武帝は儒教的教養を身につけたインテリであり、後漢の建国の功臣の多くも『詩書(詩経書経)』に親しむ儒者的雰囲気を備えた教養人でした。

 

 祭遵(雲台二十八将の第9位)の母親に対する孝行話にしても、彼が儒教に親しんでいたからこそ伝えられたことだといえるでしょう。 

 

𒉡画像引用 每日頭條

郷挙里選と孝廉

 漢王朝における官吏登用法『郷挙里選』では、中央官である公卿、もしくは地方官である郡太守などが『賢良』『方正』『直言』『極諫(きょっかん)』『秀才』『孝廉』『有道』などの徳目――徳目は次第に増加――ごとに人物を推挙していたそうです。

 各徳目の中で、最も重要視されたのは孝廉です。

 孝廉――すなわち、『親孝行』と『清廉潔白』が官吏になる最重要な道となったため、後漢では(孝廉のアピールを目的とした)過剰な偽善行為が流行しました。

 

 220年に魏が建国されると、新たな官吏登用法として『九品官人法(きゅうひんかんじんほう)』が定められました。

 郷挙里選には人脈が鍵となり、実力主義になりにくいところがありましたが、九品官人法では『中正官(ちゅうせいかん)』という人材登用専門の役職を設けることにより、公正な評価による人材登用を試みました。

 しかし、こちらの制度も時が経つにつれて賄賂やコネで左右されるようになり、形骸化していきました。

 

 純粋に試験の結果のみで官吏が採用されるのは、科挙が実施されてからですが、『』の時代から始まった科挙が制度として完成するのは、『』の時代まで待たねばなりませんでした。  

 

𒉡画像引用 Bai du 百科

月旦評

 後漢が風評社会だったことを示す一例として、『月旦評(げったんひょう)』があります。

 これは、『許劭(きょしょう)/字:子将(ししょう)』という人物が、従兄の『許靖(きょせい)/字:文休(ぶんきゅう)』らと共に行った人物評論です。

 宋代初期に成立した類書(一種の百科事典)『太平御覧(たいへいぎょらん)』によれば、その影響力は強く、月旦評で称賛された者は出世するが、芳しくなかった場合は没落したといわれています。

 若い頃の曹操が――

 

 治世之能臣 亂世之奸雄

(治世の能臣、乱世の奸雄)

【意味】世が平和に収まっている時は有能な臣下として働くが、乱世になるとずる賢い英雄になるだろう。

 

――と評されたも、この月旦評でのことでした。 

※なお、許靖による曹操の評価について『三国志)』では『治世之能臣、亂世之奸雄』となっていますが、『後漢書(許劭列伝)』では「清平之姦賊 亂世之英雄(清平の姦賊、乱世の英雄)』――意味:天下泰平の世なら邪悪なならず者、乱世なら英雄――となっています。

 

𒉡画像引用 360kuai.com

曹操

 魏王朝の実質的な建国者である曹操は、家柄や品行ではなく、才能のある人材を積極的に登用することを求めたと伝えられています。 

 現代においては『人材コレクター』ともいわれるほど、彼の配下には優れた参謀・文官・武将が集まりました。

 三国時代において魏が最大の勢力を誇り、それを継承したが天下統一を果たしたのは歴史の必然といえるでしょう。

 しかし、『古代中国人のための中国』を終わらせたのも、曹操の政策がきっかけかもしれません。

 

 曹操(とその後を継いだ曹丕)は、戦乱で荒廃した土地を開墾するために、北方の異民族を漢の領土に移住〈注6〉させました。

 内地へ移住した諸民族は、それまでの部族形態を維持したまま傭兵になることが多かったそうです。

 西晋の時代になって内乱が起こると、このような異民族が(内輪揉めに熱中する漢人を他所に)反旗を翻して独立してしまったのです。

 

 当時の中国には、現代でいう民族主義のような思想はありませんでした。

 故に、上記の政策について曹操を責めることはできませんが、こうした歴史は、現代に生きる我々に多くの教訓を示唆することでしょう。

 

𒉡画像引用 Wikipedia

 後漢の偽善社会についての話は、主に『「三国志」の迷宮(著者:山口久和』の内容より引用したいと思います。

 

 後漢は『経学』――儒教の経典(経書)を研究・解釈する学問のこと――の全盛期といわれ、儒教で説かれる倫理(名教)を文字通り遵守・実践しようとしたモラル偏重の社会だったといわれています。

 そのため、上流階級では、当然の如く徹底した儒教教育が実施される一方、『孝経(こうきょう)』については兵卒にも教え込まれたとか。

 『(こう)』とは、「子供は自身の親を敬うべし」と説く道徳的概念のことであり、儒教における伝統的な『』の1つです――孝経は、そのことが記された経典というわけです。

 

 儒教が国家に保護され始めたのは前漢の『武帝(ぶてい)』の時代からであり、後漢では国教化までされることになりました。

 その教育の成果なのかどうか、とても親孝行な人物の記録が残されました。

 例えば、『光武帝(こうぶてい)』に仕え、後漢の功臣となった武将『祭遵(さいじゅん)/:弟孫(ていそん)』は、富裕の身でありながら、母親のに際して自ら土を担いで塚を築いたと伝えられています。

 また、『蔡順(さいじゅん)/字:君仲(くんちゅう)』という人物は、母親の葬儀期間中に屋内で火災が起こると、我が身の危険も顧みず母親の棺を抱き「順此処に在り(順はここにいます!)」と天に向かって泣きながら叫んだとか。

※蔡順の母親がいつも雷を恐れていたため。

 

 話が事実であるかどうかはともかく、このような記録が史書に残されたということは、後漢においては上記のような『親思い(孝行)な人物像』が推奨されたことと無関係ではないと思われます。

※この他、『後漢書』には家族に纏わる複数の美談〈注2〉が記されています。

 

 このような美談には、重要な背景があります――それは後漢の官吏登用制度『郷挙里選(きょうきょりせん)』です。

 郷挙里選とは、地方の高官や有力者が各地域の優秀な人物を中央に推薦するシステムであり、複数ある察挙科目(推薦基準となる徳目)には、当然ながら儒教の思想が反映されていました。

 最も重要視された科目は『孝廉(こうれん)/意味:孝行で廉直(私欲なく正直)なこと』であり、この道徳性が(武帝以後の)前漢から後漢にかけて重要視されました。

 現代でも、単純作業を行うための人材を雇いたい場合は、小利口で生意気な人よりも、真面目で(不器用に見えても)人格的に信用できそうな人を選ぶこともあるでしょう――また、そういう人であれば、上司に盾突く懸念も少なくなりますし。

 国家でも企業でも、どれほどのレベルの人材を求めるかによって採用基準は変わります。

 中国では、後に『科挙(かきょ)』と呼ばれる超難関な官吏登用のための試験制度が設けられますが、後漢では、その制度を考案・実施できるほど社会が成熟していませんでした――また、その必要性もなかったのかもしれません。

 

 話が逸れましたが、郷里において道徳的な名声を博することが官吏登用の道になるならば、美談は偽善に転じます――社会において過剰に道徳が推奨されることにより、同時に偽善の風潮も醸成されたのです。

 例えば、『皇甫規(こうほき)』という人物は、自分の名声が高くないことを憂い、『党錮の禁〈注3〉』という事件が発生すると、自ら「党人(腐敗政治を批判する正義派士大夫)に関係あり」と自首したそうです。

 つまり、世間に対して自分のことを「悪なる権力に立ち向かった知識人たち(=正義の味方)の仲間である」とアピールしたわけです。

 

 また、幽州刺史(長官)だった『劉虞(りゅうぐ)/字:伯安(はくあん)』は、自分の妻妾を着飾らせながら、彼自身はボロボロの冠を被っていました。

 劉虞の場合は、『質素・倹約』の美徳をアピールしていたことになります。

 面白いことに、後漢の末期頃(桓帝霊帝の時代)になると、美談とは程遠かった宦官までも、野に隠れた賢人たちを抜擢することに奔走したとか。 

 上流階級がこんな感じでは、庶民の偽善行為も過激になりました。

 例えば、親の墓の傍に20年も住んで孝子の名声を博した人物を調べてみると、その間に5人の子供をもうけていたという話もあったそうです。 

※上記については、(おそらく)独身のまま亡き親に尽くしていた(ように見えた)人物が、実はそうでもなかったという話だと思われます。

 

 『「三国志」の迷宮』の著者によると、これらの話は『人間性の虚構』のうえの成立したことであると指摘しました。

 欲望に塗れたありのままの人間を見ず、虚構化された『ペルソナ(人格的仮面)』を真実だと勘違いした――あるいは、このペルソナを真実の人間だと信じたかった――が故に、数々の偽善の喜劇が生まれたというわけです。

 

 ブログ主は著者の見解に概ね同意しますが、この状況は、何も後漢の時代に限ったことではないと考えています

 現代――特にインターネットが普及して以降――においても、偽善の風潮は顕著なのではないでしょうか。

 (SNSなどを通じて)ちょっとした不手際が世間の目に晒され、(それが道徳的によろしくないと見れば)一斉に叩く『正義の人』がネット上ではしばしば見られるからです。

※また、『いいね!』をたくさん貰うために、SNSに正義漢ぶった投稿をする人もいるでしょう。 

 

 後漢では『製紙法の改良』という情報伝達を促進する技術革新がありました〈『その3(章:①科学技術の発展)』参照〉。

 ということは、風評が重要視されるのは(前時代に比べて)情報化が躍進した時代の特徴なのかもしれません。

 現代の公務員試験は、学力の査定を含む試験――筆記試験と面接――を通して採用されるので、後漢とは異なる人材登用制度だと思っている読者の方もいるでしょう。

 しかし、公務員(官僚)以外で政治に関わる重要な役職の登用には、風評というか、『名声』が審査の中心になっていることに気づかないでしょうか――そう、『選挙』です。

 

 選挙に立候補するためには一定の資金〈注4〉が必要ですが、そこに学力試験はありません。

 政治に全くの無知であっても、世間に名前が知られていれば――そして強い政党に援助されれば――当選して高給を得られる可能性があるのです。

 その一方で、(現職の議員は)スキャンダルでもあれば辞職に追い込まれることもあります。

 これらの件には(基本的に)政治的能力が問われることはなく、その人物の評判のみが見られています。

 しかし、人格的に優れているというだけでは、様々な政治問題を解決することはできないでしょう――特に乱世であれば。

 

 三国志の主人公の1人である『曹操(そうそう)/字:孟徳(もうとく)』は、儒教の偽善を見抜いており、人材募集の布告である『求賢令(きゅうけんれい)〈注5〉』に以下のことを記しました。

 

「唯才是挙(ゆいざいぜきょ)/ただ才のみ是れ挙げよ」

 

 つまり、才能さえあれば、人格も出自を問わない能力主義的な登用方針を宣言したのです。

 三国志の英雄が実践したからといって、現代人が求賢令の内容を真に受けると、うっかりスパイも組織に入れてしまう危険性もあります。

 しかし、当時では極めて革新的なことだったのは間違いないでしょう。

 

 能力主義(実力主義)という点において、日本で類似の発想をした権力者は戦国時代織田信長ですが、曹操は、先見性のある織田信長と勉強好きな徳川家康のような性格を持ち合わせていた傑物でした。

 曹操は自分の能力に自信があったからこそ、「どんな人材でも使いこなして見せる!」と示唆するような布告を出せたのでしょう。

 ただ、現代の日本では、曹操と同様の考え方を露骨に主張するのは極めて難しいことです――なにせ、ちょっとした評判が社会に影響してしまうのですから。

 また、政治の場のみならず、個々の職場や学校でも、評判を気にして思うように実力を発揮できない人たちも少なくないかもしれません。

 

 世の中が安定していれば、そんな風潮が蔓延していても大した害はないのですが、乱世になれば、小粒な善人では次々に発生する政治問題や社会問題を解決することはできません。

 民主主義国家における国民がこの歴史をよく学んでいれば、政治や選挙(投票先の選択基準)に対する考え方も(少しは)変わると思うのですが、「国民がそうならないのは衆愚政治への道」であり、「国民を政治的に賢くさせないのが愚民化政策」ということなのでしょう。

 

 一国の政治は、国民を映し出す鏡に過ぎない。

 立派な国民には立派な政治、無知で腐敗した国民には腐り果てた政治しかあり得ない。

 

 上記の言葉は、イギリスの作家・医者『サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)』が、その著書『自助論』において述べたことです。

 

 現実には、民主主義体制であっても民意が反映されていない場合がありますが、スマイルズの言を完全否定することもできないでしょう。

 民意はしばしば組織的な扇動によって操られますが、それはそれとして、個々の国民が政治に関心を持ち、その見識を深めていかなければ、腐敗した権力者たちを脅かせるだけの人材も生まれないのですから。


【注釈 2~6】

 

■注2 『後漢書』には家族に纏わる複数の美談

 後漢には以下のことが記されている。

 

●『蔡邕(さいよう)/字:伯喈(はくかい)』や『樊宏(はんこう)/字:靡卿(ひきょう)』の一族は、家産を守るために何世代も渡って同居するほどの宗族の仲が睦まじい家柄だった。

●『姜肱(きょうこう)/字:伯淮(はくわい)』は兄弟で同寝していたが、それぞれが妻を娶ってからも、兄弟で分かれて寝るのが忍びないほどの兄弟愛に溢れていた。

●『李充 (りじゅう)』は兄弟6人と同食更衣していたが、彼の妻がこれを嫌悪すると、その妻を家から放逐した。

 

 上記の例は、他家から嫁いできた妻たちにとっては気の毒になるほどの『家族愛』だが、この話に登場するような人物・一族が、後漢にとっては望ましい人間像だったということになる。 

 

■注3 党錮の禁

 後漢王朝の末期には『外戚(がいせき)/皇后または皇太后の一族』や『宦官(かんがん)/去勢を施された官吏』などが私欲のために権力を専横するようになっていた。

 そうした政治状況を真っ向から批判した正義感の強い知識人――『清流派』と称した士大夫豪族)たち――もいたが、そのことが権力を握っていた宦官たちの怒りを買い、彼らは官職から追放された。

 その後、一部の知識人は宦官を排斥するために挙兵したが、返り討ちに遭い、計画に加担した者たちの数多くが誅殺された。

 こうした知識人に対する弾圧は、中国史において『党錮の禁』と呼ばれ、『第1次党錮の禁(166年)』と『第2次党錮の禁(169年)』に分類される。

 

■注4 選挙に立候補するためには一定の資金

 選挙に立候補するためには、供託金を法務局に預ける必要がある。

 供託金とは、立候補者に法律で決められた金額のお金を法務局に預けさせ、当選を争う意志のない者、あるいは売名などを目的とした無責任な立候補を防ごうという制度である。

 選挙で規定の得票数に達しなかった場合や、供託金を納めた後に立候補を取りやめた場合は、そのお金は没収される。

 当然ながら、選挙活動においても資金は必要であり、一般的な市議会議員選挙の費用は200万円~800万円、参議院選挙になると6000万円以上が費やされるといわれている。

★参考サイト:選挙立候補.com(立候補に必要な条件)

 

■注5 求賢令(きゅうけんれい)

 実は三度、求賢令は布告されている。

 最初の布告は209年であり、次は214年、三度目は217年である。

 なぜ、三度も布告することになったかというと、最初に求賢令を出した後も、曹操が求めるような(儒教倫理を超えるような)人材ではなく、品行方正で小粒な人材しか集まらなかったためである。

 故に、布告を重ねるごとにどのような人材が必要かということについて、曹操は具体的に言及するようになった。

★参考サイト:はじめての三国志(曹操の求賢令が年々過激になっていて爆笑)

 

■注6 北方の異民族を漢の領土に移住

 異民族の移住は、魏以前の漢(前漢・後漢)の時代から行われていたが、魏以降の時代にその規模が大きくなった。

⑤麻薬の蔓延と現実逃避

五石散の材料

 画像の鉱物――鍾乳石・硫黄・白石英・紫石英・赤石脂――が、五石散の原材料となります。

 五石散は高価だったので、庶民が入手するのは困難な薬物でした。

 そのため、五石散を服用することは風流な貴族のステータスシンボルになっていたそうです。

 上記について現代で例えるなら、ファッション感覚で薬物に手を出す若者たちに近い気分もあったのかもしれません。

 高価な五石散を入手できない貧乏貴族の中には、雪の上に裸身で伏し、あたかも薬を服用した振りをして人に自慢をしたという逸話まで伝わっています。

 

 ちなみに、かの書聖王羲之(おうぎし)/字:逸少(いっしょう)』――(西晋後の)東晋の時代を生きた書道の大家――も五石散の中毒者だったとか。

 幻覚剤などのドラッグは脳を高次の意識状態にする――といわれることがありますが、五石散も同様の効果がある仙薬として扱われ、当時の知識人たちの潜在能力(主に文芸方面)を覚醒させていた可能性も考えられます。

 

 ただ、近代の中国の文学者『魯迅(ろじん)/字:豫才(よさい)』は、「晋の時代の人が皆、根性曲がりで狂気じみて酷く怒りっぽかったのは、おそらく薬物服用のせい」と語っていました。 

 彼は「この時代における五石散の害毒は、清末に流行した阿片と同じくらい」とまで言及していたので、(晋王朝滅亡後)純粋な漢人(この場合は古代中国人)の国家が没落してしまったのは、当然のことだったのかもしれません。

 

𒉡画像引用 文史谷

何晏

 何晏は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家・学者です。

 祖父が後漢の大将軍何進(かしん)/字:遂高(すいこう)』であり、生母の尹氏が曹操のとなったため、その関係で曹操に養育されました。 

 

 何晏はナルシストにして好色という性格であり、危険ドラッグ(五石散)を広めるような人物ですが、文才に優れ、『論語集解』や『老子道徳論』の中心的な編纂者でもありました。 

 何晏の才能は曹操に認められ、厚遇されましたが、曹操の後を継いだ曹丕(=魏の初代皇帝)には疎まれ、しばらく不遇が続きました。

 彼に『権力への道』が開けたのは、『曹芳(そうほう)/字:蘭卿(らんけい)=少帝』が帝位についてからです。

 年少の曹芳の後見役だった『曹爽(そうそう)/字:昭伯(しょうはく)』が実質的な政権を担うようになると、かねてより曹爽と親しかった何晏も重役を得たのです。

※『吏部尚書』として人事の実権を握った何晏は、多くの知人を政権に参加させました。

 

 しかし、249年――病気と称して引退を装っていた『司馬懿(しばい)/字:仲達(ちゅうたつ)』が、曹爽不在の隙にクーデターを起こすと、何晏を含む曹爽派の主だった人物は捕らえられ、処刑されてしまいました。

 

 三国時代のファッションリーダーは権力闘争に巻き込まれ、上記のような非業の最期を遂げてしまいましたが、思想・文学における何晏の功績は大きく、唐代の詩人『李白(りはく)/字:太白(たいはく)』や『杜甫(とほ)/字:子美(しび)』もその影響を受けたといわれています。 

 

𒉡画像引用 Bai du 百科(画像は現代のイラストです)

 この章では、中国史最初の薬物汚染について解説します。

 中国史における薬物汚染と言えば、清王朝末期の『阿片(あへん)』が有名ですが、それよりも遥か以前に薬物が国家を衰退させた事例がありました。

 記事の冒頭でも少し言及しましたが、(三国時代を含む)魏晋南北朝時代の時代では、『五石散(ごせきさん)/あるいは寒食散(かんしょくさん)・寒石散(かんせきさん)』と呼ばれる麻薬のようなものが流通していました。

 

「五石散を服用すると、病気が治るばかりではなく、気分が晴れ晴れする」

 

 このように語ったのは、三国時代()の政治家・学者だった『何晏(かあん)/字:平叔(へいしゅく)』であり、彼は五石散を世に広めた人物として伝えられています。

 

 五石散とは、鍾乳石硫黄白石英(水晶)・紫石英赤石脂という5種類の鉱物を磨り潰して作られた薬物(向精神薬)です。

 五石散は、『その3』の記事でも紹介した医師『張機(ちょうき)/字:仲景(ちゅうけい)』が『傷寒(チフス)』の治療薬として開発したものともいわれ――後漢末期からか、三国時代からかは不明ですが――虚弱体質の改善や不老不死の効果があると考えられるようになりました。

 また、性行為における媚薬強壮剤としても使用されたそうなので、五石散は、現代における覚醒剤のような効果をもたらす薬物といえるでしょう。

※この他、五石散には幻覚作用があり、それ故かどうか、「(五石散を服用すると)仙人に成れる」とも信じられていたそうです。

 

 しかし、その副作用も酷いものでした。

 五石散を服用すると、皮膚が敏感になり、体が温まるそうです。

 これが『散発』と呼ばれているのですが、散発が起こらず、薬が体内に籠ったままだと中毒死するとされたので、散発を保つために歩き続けねばなりませんでした。

 こうした状態が『行散』と呼ばれ、『散歩』の語源になったといわれています。

 また、発熱するので厚い衣類を着ることができず、皮膚は爛れ、風呂にも入れず、冷えたものを飲食するようになったとか(『諸病原候論』より)――そのため、五石散は『寒食散』とも呼ばれました(ただし、酒は熱いものでも問題なかったそうです)。

 過剰摂取で死に至る者もいて、魏の時代よりずっと後の唐代でも、五石散などの薬物による中毒死〈注7〉が(20代の皇帝のうち)数人はいたと伝えられています。

 何晏というインフルエンサーがいたとはいえ、そのような薬物が、なぜ流行したのでしょうか。 

 

 後漢末期の大乱より、儒教に代わって流行した思想は老荘思想でした。

 魏の時代になると、知識人たちは常識的な儒教道徳を超え、主に老荘思想を題材とする浮き世離れした哲学論争を繰り広げました――これが『清談(せいだん)』と呼ばれています。

 そして、この清談に付き物だったのが酒と薬物(五石散)だったのです。

 

 清談に関わった者たちの中で特に有名になったのが『竹林の七賢(ちくりんのしちけん)』と呼ばれる7人の知識人たちです。

 当時は奔放な言動によって死に至る危険があったので、『竹林の七賢』の清談は、体制への憤慨を隠した精一杯の批判精神の表明――と解釈されることもありますが、彼らは政府の高官でもありました。

 現代の政治家や高級官僚たちが、(彼らのサロンにおいて)危険ドラッグをキメながら、スピリチュアルな思想の話題で盛りあがっていたら、読者の皆様はどう思われるでしょうか?

 政治を担う者たちが薬物と現実逃避に浸ることになれば、国家の運営がまともにできるはずもありません。

 見方を変えると、当時は戦乱や権力闘争に伴う危険により、貴族でも、そういう状態になりたくなるほどの高ストレス型社会だったということになります。 

 上記の時代を生きた者たちだからこそ、かりそめの癒しと爽快感をもたらす五石散を積極的に求めたのかもしれません。

 

 ただ、国家をリードすべき『知識人=貴族=高級官僚』までも現実逃避したくなる状況――そして薬物がそれをより促進してしまう状況――は(前述した通り)三国志時代を統一した西晋が短期間で滅亡する要因の1つになったといわれています。

 言うなれば、際限なく積み上がっていく現実の問題を解決しようとする気力が、薬物と現実逃避によって弱くなってしまったため、蛮勇を振るう異民族に抗し切れなくなってしまったということでしょうか……。

 

 この話を過去のこととして笑えないのは、現代でも同様の薬物汚染が(芸能界のみならず)中央官庁の職員にも広がっていることです――もちろん、政治家も関わっている可能性があります。

 現代は、後漢末期に見られた政治腐敗とカルト宗教の台頭に加え、魏晋時代に見られた薬物汚染などが合わさった状態――つまり、長きに渡る破滅的な乱世の前兆が現れているのかもしれません。

 

 これまではアメリカという覇権国家を中心に(なんとか)先進国が秩序を保っている状況ですが、その柱が折れたらどうなってしまうのでしょうか。

 強大な軍事国家が、思いのままに他国を侵略するような乱世に突入する可能性も考えられるでしょう。

※現状(2022年9月末時点)において、すでにその兆候が見られます。

 

 国家が崩壊に至るような時代の激流に吞まれた時、民衆は如何にして生きるべきなのか――これは過去の人々だけでなく、現代の我々にとっても、大きな課題となるでしょう。

 

 では、次回はいよいよ『黄巾の乱』を引き起こした太平道の件について取り扱います。


【注釈 7】

 

■注7 唐代でも、五石散などの薬物による中毒死

 不老長生や仙人になることを目的にして作られた薬は『丹薬(たんやく)』、その原料を融解したり、昇華させたりして製造する技術が『煉丹術(れんたんじゅつ)』と呼ばれている。

 丹薬の製造は三国時代から盛んになり、唐代以後まで熱心にその製造が試みられた。

 これらの丹薬や五石散などによる中毒により、唐の20代の皇帝のうち、6人が身を滅ぼしたという

 

 丹薬と同じく、五石散も仙薬としての扱いを受けるようになった――「服用すれば仙人に成れる」と信じられた――が、丹薬との違いは、大がかりな装置や特殊な技術が不要だったことである。

 つまり、暇と金さえあれば手軽に行うことができたので、魏と晋の貴族の間で流行した。

 なお、中国史上屈指の名君として知られた唐の『太宗=李世民(りせいみん)』も、五石散を服用していたといわれている。 

★参考サイト:中国新聞

参考・引用

■参考文献

●三国志〈1〉転形期の軌跡 丸山松幸、中村原 訳 松枝茂夫、立間祥助 監修 徳間書店

●正史 三国志 陳寿、裴松之 著 ちくま学芸文庫

●後漢書 本紀 范曄 著 吉川忠夫 訳 岩波書店

●世説新語 劉義慶 著 井波律子 翻訳 東洋文庫

●「三国志」の迷宮 山口久和 著 文藝春秋(文春新書)

●千年王国運動としての黄巾の乱 三石善吉 著  

●『世説新語』劉孝標訳注稿(四) 可合安(『世説新語』劉孝標訳注稿) 著

●魏晋の文人における「狂」について 八木章好 著 慶応義塾大学日吉紀要・文化・コミュニケーション

●中国伝統医学と道教(第23回)五石散 吉元昭治 著

●道教神仙説の成立について 陳仲奇 著

●王義之と五石散 佐藤利行 著

 

■参考サイト

●Wikipedia

●WIKIBOOKS

●Wikiwand

●Weblio辞書

●ニコニコ大百科

●ピクシブ百科事典

●コトバンク

●goo辞書

●もっと知りたい! 三国志

●光武帝と建武二十八宿伝

●後漢人物名録  

●何晏と五石散・寒食散(世説新語・蘇軾)

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●王羲之と本草

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